こんにちは。まことです。
2日前の1月17日。その日の27年前。
阪神淡路大震災の起こった日。
改めてその日を振り返って思ったことを書きたいと思います。
あの日、23歳の私は神戸に母と姉妹で住んでいました。
父は単身赴任中。
寒い冬、真っ暗な早朝5時46分、まだ寝ている時間。突然の大きな揺れ。
布団を頭からかぶり、丸まって悲鳴を上げたのを覚えています。
揺れがおさまって、「みんな大丈夫?」という母の声。
母は朝の食事などの準備のためすでに起きて台所にいました。
台所へ行くと、「こっちへ来たらダメ!ケガするわ」と母。
食器棚の扉が開いて、割れた食器が床に散乱していました。
家族はみんな無事でした。
家も鉄筋のマンションでその時点では特に問題はなし。
家の周囲も同じような建物が集合している地域だったので、
窓から見る限りつぶれている家はない。
だから地震の規模がその時は分からなかった。
その頃は、携帯電話もなく、とテレビをつける。
そして、見た光景に衝撃と恐怖を感じました。
阪神高速が傾いて折れている。
全壊した建物、大きな火事。
これが少し離れた場所で起こっている。
そして、部屋に戻ると、私の枕の上に、14インチのブラウン管テレビが落ちていました。
私の頭元には高さのあるタンスが置いてあって、その上にテレビを置いていたんです。
あの時、頭を抱えて丸まって枕から頭が外れてから良かったものの、
もし普通に寝ていたら、と考えると、それにも恐怖を感じました。
断水になると思い、お風呂に水を溜めました。
その後、やはり断水になりました。
災害に備えての準備なんて何もない。
買物に行っても本当に棚が空っぽ。
あるものを食べる、飲む、という生活。
湯船の水でトイレも流していました。
近くの公園で水が出ている、と聞いて汲みにも行きましたが、
他の方々もいるし、量的にもそんなに汲めない。
給水車も欲しいだけもらえるわけではない。
電車も止まっていて仕事には行けませんでした。
2日ほどして一部復旧したため職場へ。
職場は大きな損害もなく、ライフラインも無事でした。
そこで、3Lほどのポリタンクに水を入れて、両手に持って電車に乗って数日間は持って帰りました。
そして、ある日、帰ると同時に台所から「水出たよ!」という妹の声。
「うそー!!!」
台所に直行すると、テーブルの上におにぎりがお皿いっぱい並んでいるのを見て、
嬉しくて泣きそうになったのを覚えています。
水が出るようになっても、無駄に使ってはいけない、という気持ちがずっと続いて、
ちょっとしか出さない、顔も風呂の残り湯で洗う、ということをしていました。
そして、気持ち的にも何となく、何もかもやる気が無くなった。
まだ23歳、社会人になって、実家暮らしで、自由になるお金が増え、
ファッション、美容、そういうものを自分で買えるようになり、
楽しんでいました。
それが一気に気持ちが冷めた。
天災でこれらを失うかもしれない、何のためにオシャレしてるんだろう、
若いなりにそういうことを考えるようになりました。
変わり果てた街を実際に見て、余計にそういう思いが強くなる。
寝る時になると、なぜか分からないけれど涙が出る。
あの、テレビが落ちていた場面が自分だけにはまた衝撃だった。
しばらくはそんな日々を過ごしていました。
こうして書いているだけでも、胸がいっぱいになります。
そこから街は復活して、私も年を重ねた。
私の居場所も環境も変わった。
気持ちも戻った。
あれから27年。
私は50歳。
震災前に過ごした年月よりも、後の人生の方が長くなっていることにも驚く。
あの時、母は48歳だったんだ。今の私よりも若かったんだ。
それにも驚く。
不安だっただろうな。
歳月が経つと、覚えてはいても、やはりいろいろなことが薄れてしまう。
でも、改めて、当たり前と思っていることに感謝しないといけないと感じる。
水が出る、電気が使える、電車に乗られる、物を買える。
そして何よりも。
生きていられたこと。
そう、生きていることも当たり前のことじゃない。
災害対策も、正直全く出来ていない。
物を減らす断捨離も大事だけれど、何かあったときの備蓄も必要。
部屋の環境を整えることも。
倒れやすいものはないか、高いところに物は置いていないか。
すぐに外に出られるか。
大事なものはまとめられているか。
改めて、そういうことも考え、整えていきたいと思います。
お読みいただきありがとうございました。
☆ご訪問・応援ありがとうございます。
☆ブログの更新をお知らせいたします。
2日前の1月17日。その日の27年前。
阪神淡路大震災の起こった日。
改めてその日を振り返って思ったことを書きたいと思います。
あの日、23歳の私は神戸に母と姉妹で住んでいました。
父は単身赴任中。
寒い冬、真っ暗な早朝5時46分、まだ寝ている時間。突然の大きな揺れ。
布団を頭からかぶり、丸まって悲鳴を上げたのを覚えています。
揺れがおさまって、「みんな大丈夫?」という母の声。
母は朝の食事などの準備のためすでに起きて台所にいました。
台所へ行くと、「こっちへ来たらダメ!ケガするわ」と母。
食器棚の扉が開いて、割れた食器が床に散乱していました。
家族はみんな無事でした。
家も鉄筋のマンションでその時点では特に問題はなし。
家の周囲も同じような建物が集合している地域だったので、
窓から見る限りつぶれている家はない。
だから地震の規模がその時は分からなかった。
その頃は、携帯電話もなく、とテレビをつける。
そして、見た光景に衝撃と恐怖を感じました。
阪神高速が傾いて折れている。
全壊した建物、大きな火事。
これが少し離れた場所で起こっている。
そして、部屋に戻ると、私の枕の上に、14インチのブラウン管テレビが落ちていました。
私の頭元には高さのあるタンスが置いてあって、その上にテレビを置いていたんです。
あの時、頭を抱えて丸まって枕から頭が外れてから良かったものの、
もし普通に寝ていたら、と考えると、それにも恐怖を感じました。
断水になると思い、お風呂に水を溜めました。
その後、やはり断水になりました。
災害に備えての準備なんて何もない。
買物に行っても本当に棚が空っぽ。
あるものを食べる、飲む、という生活。
湯船の水でトイレも流していました。
近くの公園で水が出ている、と聞いて汲みにも行きましたが、
他の方々もいるし、量的にもそんなに汲めない。
給水車も欲しいだけもらえるわけではない。
電車も止まっていて仕事には行けませんでした。
2日ほどして一部復旧したため職場へ。
職場は大きな損害もなく、ライフラインも無事でした。
そこで、3Lほどのポリタンクに水を入れて、両手に持って電車に乗って数日間は持って帰りました。
そして、ある日、帰ると同時に台所から「水出たよ!」という妹の声。
「うそー!!!」
台所に直行すると、テーブルの上におにぎりがお皿いっぱい並んでいるのを見て、
嬉しくて泣きそうになったのを覚えています。
水が出るようになっても、無駄に使ってはいけない、という気持ちがずっと続いて、
ちょっとしか出さない、顔も風呂の残り湯で洗う、ということをしていました。
そして、気持ち的にも何となく、何もかもやる気が無くなった。
まだ23歳、社会人になって、実家暮らしで、自由になるお金が増え、
ファッション、美容、そういうものを自分で買えるようになり、
楽しんでいました。
それが一気に気持ちが冷めた。
天災でこれらを失うかもしれない、何のためにオシャレしてるんだろう、
若いなりにそういうことを考えるようになりました。
変わり果てた街を実際に見て、余計にそういう思いが強くなる。
寝る時になると、なぜか分からないけれど涙が出る。
あの、テレビが落ちていた場面が自分だけにはまた衝撃だった。
しばらくはそんな日々を過ごしていました。
こうして書いているだけでも、胸がいっぱいになります。
そこから街は復活して、私も年を重ねた。
私の居場所も環境も変わった。
気持ちも戻った。
あれから27年。
私は50歳。
震災前に過ごした年月よりも、後の人生の方が長くなっていることにも驚く。
あの時、母は48歳だったんだ。今の私よりも若かったんだ。
それにも驚く。
不安だっただろうな。
歳月が経つと、覚えてはいても、やはりいろいろなことが薄れてしまう。
でも、改めて、当たり前と思っていることに感謝しないといけないと感じる。
水が出る、電気が使える、電車に乗られる、物を買える。
そして何よりも。
生きていられたこと。
そう、生きていることも当たり前のことじゃない。
災害対策も、正直全く出来ていない。
物を減らす断捨離も大事だけれど、何かあったときの備蓄も必要。
部屋の環境を整えることも。
倒れやすいものはないか、高いところに物は置いていないか。
すぐに外に出られるか。
大事なものはまとめられているか。
改めて、そういうことも考え、整えていきたいと思います。
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